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CREATOR FILE VOL.13

CREATOR FILE Vol.13(Interview ver.)

写真館ハセガワ

長谷川正之(はせがわ・まさゆき)さん

 

 


 

 

70歳になっても『若い』と思われる写真を

 

 

「写真館ハセガワ」は1927年に創業の、弘前で長年愛され続けてきた老舗の写真館。代表の長谷川正之さんは、世界最高峰の国際フォトコンテストにも入賞経験のある写真家でもある。芸術的な作品が生まれた背景にはどのような人生があったのか、「世界のハセガワ」に話を伺った。

 

弘前の高校卒業後は東京の短期大学に進学し、写真技術科を専攻。ここだけを切り取れば、フォトグラファーへの道は順風満帆だったように思えるが、「バンドがやりたくて上京したようなものだから」と長谷川さんは笑いながらと当時を振り返る。

 

カメラとの出会いは中学生の頃。修学旅行の記念写真を撮るために、父親である故・長谷川亨(とおる)さんが経営していた写真館の一眼レフカメラを持たせてもらった。当時はフィルム式のコンパクトカメラが主流であり、一眼レフがTVCMなどで注目され始めた時期でもあったが、長谷川さん自身はあまり興味が持てず、カメラもそこで置いてしまった。夢中になっていたのは音楽で、中学はブラスバンド、高校はブラスバンド・ビッグ・バンド・ジャズ、そしてロックバンドでドラムを担当。当時あった代官町のスタジオに毎日のように通い、向かいのレコードショップで高価なレーザーディスクを眺めて帰る青春時代だったという。

 

 


▲現在のハセガワ写真館には往年の名機がズラリ
 

 

上京するときには、「卒業できる程度に勉強すればいい」と紹介された亨さんの母校の写真短期大学に通い、フィルムカメラの撮影スキルや現像の仕方などを学んでいたが、短大でもバンドに明け暮れる日々。短大卒業後は「素晴らしい先生がいるから」と、ホテルニューオオタニ写真室の先生を父親に紹介され、師弟として長谷川さんは5年間修行することになる。業界の錚々たる著名人たちが結婚式を挙げる現場で、先生や先輩たちの助手として働き始めたが、「僕の中でカメラは『仕事』だった」と話す通り、カメラに喜びを見出せないでいた。

 

転機となったのは全米プロ写真家のフォトコンテスト(PPofA international photographic competition)の見学ツアーに参加したとき。会場がラスベガスだったこともあり「行く前は100%観光目的だった」と話すが、目の前に広がる写真作品の数々に、「今まで自分が見てきた写真は何だったのだろう」と大きなショックを受けたという。「当時の日本の写真といえば、スタジオで着物を着て、正面を向いて笑っている写真しかないような時代。ロケーションにこだわり、絵画のような芸術性の高い写真に圧倒された」と話す長谷川さんは、「自分の写真が、いつかここに飾ってもらえるようになりたい」と夢を抱く。まだ21歳のときだった。

 

 


▲長谷川さんが手がけたポートレート作品
 

 

大きな刺激を受けて日本に戻った長谷川さんは、結婚式場での仕事に加え、空き時間を使って友達にモデルを頼み、ポートレート撮影を繰り返すなど写真漬けの日々。なかなか結果が出ないながらも少しずつ手応えを感じていたが、23歳のときに恩師だった先生が突然倒れ、他界してしまう。

 

突然の出来事に戸惑いながらも、今後のキャリアを選択しなければいけない長谷川さんは、写真留学をしにアメリカに行くことを決意。一旦地元に帰って英会話を学んだ後に渡米する予定だったが、弘前駅前に新しくできたホテルに長谷川さんが専属カメラマンとして入ることになり、留学は水の泡になってしまう。「親父からは、『その代わり毎年のアメリカの国際写真コンテストには見に行かせる』という条件でOKした」と苦笑いする。

 

 

 

 

カメラマンとして実績を積みながら、海外の作品にも刺激を受け、気がつけば全国の写真コンテストなどで入賞することも多くなっていた長谷川さん。亨さんの勧めもあり、東北のプロ写真家同士で勉強会を立ち上げるなど交流も増えていった30歳のとき、初めて「PPofA international photographic competition」に応募。結果は入賞・優秀賞を獲得し、新聞など多くのメディアに取り上げられ、「世界のハセガワ」が誕生した瞬間でもあった。それ以降、長谷川さんは世界の舞台で多くの作品を出品し、入賞を繰り返すことになる。

 

 


▲2017年の「PPofA international photographic competition」で入賞した作品

 

 

その後は亨さんがカメラマンを引退し、ハセガワ写真館の撮影は全て長谷川さんに任されるようになったが、プレッシャーも大きかったという。「親父に言われて悔しかったのが、『おまえがいくら下手でも、この写真館は俺の名前があるからこの先10年は潰れない。だけど、その後どうなるかはおまえ次第だ』と言われ、わいは、なんだよと思ったけど、それだけ自信があることをやってきたんだなと素直に尊敬もした」と語る。

これまでの写真館としての仕事はもちろん、デジタル化もいち早く導入し、フォトショップでの写真加工も取り入れるなど、長谷川さんの色で写真館を経営。売り上げが落ちる時期もあったが順調に経営は進み、気がつけば10年が経っていた。

 

 

 

その10年を待つように、長谷川さんが41歳の頃、亨さんが他界。「(正式に経営を)譲る気はあったみたいだけど、タイミングを逃したみたい」と語る長谷川さんは、そのまま3代目に就任。街の写真館として多くの人の晴れの日に立ち会い、撮影を続ける一方、写真家として今でも国際コンテストに出品している。「写真文化の発展を担っているのが写真家。技術やセンスを磨いて革新し続けなきゃいけない。だから作品を出品する」と長谷川さん。

 

「お金を出して写真を撮ろうとしている人がいるのだから、中途半端にはできない。70歳になっても『若い』と思われる写真を撮りたいよね」と笑顔で語ってくれた。

 

 

 

取材 文・写真:下田翼

 

 

 

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