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歴史探訪

天皇の御陵墓に鉱山跡地、城跡まで!歴史探訪も相馬の楽しみ方の1つ。
長慶天皇御陵墓参考地(紙漉沢地区)
持寄城跡(藤沢地区)
岩屋不動尊(大助地区)
覚応院(湯口地区)
舟打鉱山跡

長慶天皇御陵墓参考地(紙漉沢地区)

 

807年、坂上田村麻呂が東征のおり、宝龍権現を祀ったのが始まりとされる上皇宮がある。この場所は第98代長慶天皇御陵墓伝説の地とされている。

長慶天皇は在位16年で弟の後亀山天皇に譲り上皇となったが、足利氏の策謀に合い、紀伊の玉川宮、高野山金剛寺、伊勢の国、海路で常陸の国、白川、伊達を経て陸奥に逃れ、最後には修験山伏に身を隠し、応永10年(1403)相馬地区紙漉沢御所で忠臣に見守られて崩御されたと伝えられている。

 

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〒036-1504

青森県弘前市紙漉沢字山越174-4 

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持寄城跡(藤沢地区)

元弘3年(1333)鎌倉幕府執権・北条高時が治める鎌倉幕府は、後醍醐天皇の倒幕計画によって滅亡したが、幕府の重臣・安達高景、名越時如らが幕府の再興を期して、奥州にいて反撃の機会をうかがっていた。

それに対し朝廷は北畠顕家を陸奥守に任じ平定、落ちのびた軍勢が最後まで応戦。それがこの地であり、持寄城の戦いであると伝えられている。現在では1本の供養塔が残るだけだが、当時は、周囲を堀で巡らせ、堅牢な柵を築く山砦だったといわれている。

 

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〒036-1512

青森県弘前市藤沢字野田244-2 

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岩屋不動尊(大助地区)

 

その昔、津軽藩直営の尾太鉱山がこの地の近くにあり、大変栄えていたという。不動尊の前の道は当時銅を運んだ道。祠の前には一対の石燈籠が祀られており当時の隆盛を忍ばせている。

昭和60年、祠から縄文土器が採集され、ここが縄文遺跡であることが判明した。

 

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〒036-1513

青森県弘前市大助字竜ノ口123-1

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覚応院(湯口地区)

 

長楽寺由緒によれば、享保13年(1728)から嘉永4年(1851)まで修験宗で、行峯山行楽寺と寺山号を許されていたが、同年11月修験宗を廃し、新義真言宗に入帰し、明治7年に真言宗醍醐派行峯山覚応院(7代目住職)と改称して現在に至っている。

火性三昧で知られる本尊は、また波切不動尊と呼ばれ、津軽為信公が津軽を統一した当時の話として、大原真守の宝刀を海に沈めて暴風の難から逃れることができたということから、尊崇高かったと言われている。以来、藩主の崇敬を受け藩の祈願所をつとめていた。

 

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〒036-1501

青森県弘前市湯口字一ノ安田98

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舟打鉱山跡

 

江戸時代末期、安政年間(1854年~1859)相馬村の万右衛門によって白光の石が見つけられ、これが鉛、亜鉛、銅などが入り混じった鉱石であることがわかり、採鉱を始めたのが舟打鉱山の始まりであるといわれている。

昭和4年に日本曹達の所有となって本格的な採掘が開始された。昭和17、18年頃には第二次世界大戦のため増産をしいられ、全国の若者が奉国隊の名のもとに動員され昼夜の別なく増産にはげんだ。

戦後、従業員数は減ったものの、日産70トンの選鉱ができる立派な選鉱場もあり、年産鉛1010トン、亜鉛1964トンが生産されていた。

昭和36年、舟打鉱山は閉山した。

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