協力隊の穗坂修基(ほさかもとき)です。
「舟打鉱山」
相馬地区に住む人でも、名前は聞いたことがあるけど詳しく知らないし、行ったこともないという人が多いのではないでしょうか。
「百聞は一見に如かず」、この目で見るために、
6月15日、協力隊(加賀&穗坂)と相馬総合支所の佐々木支所長で、舟打鉱山跡へ視察に行ってきました。
江戸時代末期、安政年間(1854年~1859)相馬村の万右衛門によって白光の石が見つけられ、これが鉛、亜鉛銅などが入り混じった鉱石であることがわかり、採鉱を始めたのが舟打鉱山の始まりであるといわれています。
山の権利は転々と変わっていきましたが、そのときの山主によって鉱石は次々と掘り出されたそうです。
昭和4年に日本曹達の所有となって本格的な採掘が開始されました。
昭和17、18年頃には第二次世界大戦のため増産をしいられ、全国の若者が奉国隊の名のもとに動員され昼夜の別なく増産にはげみました。
戦後、従業員数は減ったものの、日産70トンの選鉱ができる立派な選鉱場もあり、年産鉛1010トン、亜鉛1964トンが生産されていました。
昭和36年、舟打鉱山は閉山しました。
参考文献:鳴海恒男『相馬村史』津軽書房、1985年
鉱山が健在だった頃、従業員とその家族が舟打鉱山近くに住み、集落を形成していました。
昭和30年頃は、人口が800人を数え、大集落でした。
そんな舟打の現在は…↓
平成7年に建てられた石碑
いつ作られたか不明な石垣
石碑や石垣といったわずかな痕跡が残るだけです。
というのも、閉山後の鉱山諸施設-事務所・住宅・小中学校の校舎・土地-などは、競争入札で処分されたからだそうです。
多くの相馬村(当時)の人たちが落札し、解体して運搬し去ったため、今は何も残っていません。
※舟打鉱山跡までの道は、大変険しくなっています。いわゆる、険道、酷道です。行く場合は、十分な準備をしてください。