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弘前ゆかりの著名人

池田源兵衛 いけだげんべい

津軽藩抱塗師、代々、源兵衛を称しました。初代は、天和(1681年~)の頃の若狭小浜(福井県小浜市)の漆工で、津軽信政に抱えられて津軽に移り、漆師頭となりました。二代目が偶然の発見から案出したのが、世にいう唐塗り。二代目は津軽塗りの祖と呼ばれています。

 

菊池楯衛と外崎嘉七 きくちたてえい と とのさきかしち

ともに弘前りんご栽培功労者。前者は津軽藩士で、廃藩後は青森県庁に出仕する一方、農事に関心を持ち、地元に適した良苗を一般に分譲したり、同志を集めて化育社を作りました。後者はりんご病虫害発生のとき、袋掛けを採用し、止め金入袋を考案するなど、画期的新技術導入者で、青森県が生産日本一となるきっかけをつくったともいえます。ともにその技術と功労は高く評価されています。
菊池(1846年~1918年)、外崎(1859年~1924年)

 

堀江佐吉 ほりえさきち

弘前の棟梁。代々名匠の家に生まれた五代目。明治時代、弘前の主な建築物のほとんどが佐吉の施工。早くから洋風建築に関心を持ち、特に明治37年に建築した現青森銀行記念館は後世に残る傑作のひとつ。(1845年~1907年)

 

本多庸一 ほんだよういつ

幕末の頃、同志菊池九郎らと国事に奔走した人物。明治 3年藩命で横浜に出て英学を修業。そこでキリスト教に入信し、その後宗教家に留まらない幅広い活動を行いました。東奥義塾草創期における功労者でもあります。(1848年~1912年)

 

一戸兵衛 いちのへひょうえ

東奥義塾創立とともに入校しましたが、軍人を志して上京、兵学校に入りました。その後、大正9年まで教育総監を務め、退役してから学習院院長を経て明治神宮宮司、帝国在郷軍人会会長を兼ねた人物。(1855年~1931年)

 

珍田捨巳 ちんだすてみ

藩学を経て、東奥義塾に学び、米留学の後、東奥義塾で教鞭をとっていたこともあります。明治18年、外務省に入り、各地領事や公使を歴任しました。数々の政治の重要な場に立った後、東宮大夫を経て待従長となり、枢密院顧問官に親任されました。(1856年~1929年)

 

野沢如洋 のざわじょよう

弘前市袋町生まれ。日本画家で中国・欧米各地を遊歴し、数々の作品を残しました。卓越した水墨画の力量を基に新しい西洋風の画境を開きました。(1865年~1937年)

 

佐々木五三郎 ささきごさぶろう

社会実業家。東奥義塾に学んだ後、上京して英学を志したが病気となり帰郷。家業を継いで薬種業を営みました。明治35年の大凶作に自宅を開放して数人の困窮児童を収容し、これが東北育児院の始まりとなりました。後、慈善館と名付けられた映画館を設立。東北育児院は昭和 6年に愛成園と改称され、現在に至っています。 (1868年~1945年)

 

菊池九郎 きくちくろう

初代弘前市長。教育・政治・産業各界の指導的役割を果たし、士族的良識を代表する人物。東奥義塾の創設者でもあり、明治を代表する指導者の一人でもあります。弘前公園の杉の大橋のたもとに津軽義孝氏の篆額である碑があります。(1847年~1926年)

 

前田光世 まえだみつよ

明治37年、身長160センチメートルという小兵ながら柔道日本一になったことから、日本と講堂館を代表して柔道の紹介のため渡米し、その後ヨーロッパや中米諸国を経て、ブラジル・アマゾンのパラ州ベレン市に至る。ここでも柔道を広め、ブラジルへの移民事業にも尽力し、一度も日本へ帰ることなく永眠。“コンデ・コマ”の尊称(コンデは伯爵、コマは強すぎて相手がなくて困ったことから)で知られる。(1878年~1931年)

 

柴田やす しばたやす

私立柴田和洋裁縫学校(現柴田女子高校)など、幾つか女子のための学校を開きました。宿願であった短期大学開校の祝賀式典で祝辞朗読中に倒れて急逝するという劇的最期。川端町に碑があります。(1881年~1950年)

 

藤田謙一 ふじたけんいち

弘前出身。明治大学卒業後、大蔵省に奉職しましたが、後に実業界に転身し、各種企業に参画。日活社長をはじめ、多くの企業を経営し、大正15年、東京商工会議所第五代会頭に就任。やがて日本商工会議所を創設して初代会頭を務めるなど、日本の財界に重きを成した人物。(1873年~1946年)

 

佐藤尚武 さとうなおたけ

外務大臣などを経て、昭和22年に枢密院顧問官に就任。参議院議員当選 3期、40年任務満了で退官し、23年、参院外交委員長となり、24年~28年5月まで参議院議長を務めました。その後も多くの重要な要職についています。(1882年~1971年)

 

笹森順造 ささもりじゅんぞう

哲学博士、東京新公論主筆、米国デンバー新報主筆、青山学院長として活躍。衆議院議員当選 4回、参議院議員当選 3回、国務大臣の大役を果たしています。(1886年~1976年)

 

棟方志功 むなかたしこう

大正13年に画家を志して上京し、貧苦に耐えながら精進し、木版画の道へ没入。生の躍動する自由奔放な表現で独自の世界を確立し、国際版画大賞を受賞するなど、世界的版画家。幼少から弘前ねぷたに憧れ、昭和46年に念願の大ねぷたを制作しました。(1903年~1975年)

 

木村健二郎 きむらけんじろう

弘前市出身、東京大学理学部化学科卒、同大学名誉教授理学博士で、分析科学の権威でもあります。明治 8年、東大教授を務め、理学部長に就任。昭和29年3月、第五福竜丸の死の灰の分析を行った事は有名。昭和48年勲一等瑞宝章を受賞。(1897年~1988年)

 

竹内俊吉 たけうちしゅんきち

大正14年東奥日報社入社。昭和15年退社後、県会議員、衆議院議員、東奥日報社取締役などを経て昭和38年に青森県知事に就任。その後、長く県政をリードしてきた人物です。常盤坂のりんご公園に建つ碑文は「りんご花まつり」にも歌われます。

【竹内俊吉の碑】

われらつどいて 花まつるりんごの花
わかき日のこゝろの花 ふるさとの花
リンゴの花
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