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りんごのエピソード

りんごが生んだ物語

りんごは日本特有の果実ではなく、コーカサス地方から中国天山山脈にかけてが原産地と推定される西洋の果物です。

アッ プル(apple)という言葉は、そもそもが果物の総称で、2000年以前のヨーロッパでは王侯貴族から庶民の間まで広く食用されていたようです。いつ頃 から食べられるようになったのかは判然としませんが、世界最古のりんごが、4千年昔の姿のまま、スイス、ロンドン、ニューヨークなどの博物館に保存されて います。これは、湖棲民族の遺跡から発見された炭化したりんごで、中には保存食として乾燥したものまであるそうですから、古代のヨーロッパ民族にとって、 りんごはとても大切な食料源のひとつであったことは間違いありません。現在もコーカサス地方などに、りんごの原種が野生しています。

りんごが生んだ物語挿絵

 

ニュートンの発見

万有引力の法則を発見したニュートンは、りんごの実が地上に落下するのを偶然に見かけ、それでヒントを得てこの大法則を発見したといわれてます。これは彼自身が友人に出した手紙の中に書いていることですので、まちがいのない事実だと思われます。

ニュートン挿絵

 

ペリー来航とりんご

わが国にはじめてりんごが紹介された時期についてはあまりはっきりしておりませんが、黒船でやって来たペリー提督の献上品の中にあったとか、いろいろの説があります。初めてのりんごは、さぞかしめずらしいものだったことでしょう。

ペリー来航挿絵

黒田清隆のりんご移入

わが国に正式にりんごが移入されたのは、明治4年(1871年)6月、北海道開拓使次官黒田清隆がアメリカから苗木をおくり東京の青山官園に75種のりんごが植えられたのが始まりです。

ウィリアムテル

りんごについての有名なエピソードとして、ウィリアムテルとりんごの話があります。悪徳領主においつめられたウィリアムテルは、自分の息

 

子の頭に、りんごをのせ、それを弓で射る事を命ぜられ、みごとに命中させてその難をのがれたというものです。

ウィリアムテル挿絵

旧士族とりんご

明 治になり幕藩体制から廃藩置県へと、世の中が大きく変り、刀を捨てた旧士族に対する勧業事業の一つとして、りんご栽培が奨励されました。これら旧士族の 数々の苦難と努力が実を結び、今日のりんご栽培の基礎が築きあげられたのです。明治初期の宣教師達の手助けもまた見のがすことのできない大きな力でした。

刀など士族挿絵

りんご産業の発展に貢献した人物

菊池 楯衛

(1846~1918)

 菊池楯衛は、弘前市鷹匠町の出身で、津軽地域がりんごの栽培に適していることを見つけ、栽培を広めて青森県のりんご産業発展の基礎を築いた人物で、「青森りんごの始祖」と言われています。

 楯衛は明治8年、国から無料で配布されたりんごの苗木を、津軽地域一円に散らばっていた旧士族を中心に配り、試作させました。現在津軽地域に広くりんごが栽培されているのは楯衛による苗木の配布がきっかけとなっているのです。

外崎 嘉七

(1859~1924)

 外崎嘉七は病害虫などによる生産の危機を乗り越えるために努力した人で、「青森りんごの中興の祖」あるいは「りんごの神様」と言われています。

 外崎嘉七は明治20年からりんご栽培を志し、菊池楯衛に教えを受けてりんごを植え、30年代に入るとりんご品評会では絶えず上位を占めるほどの技術を持つようになり、3年連続で1等賞を取り農家出身者としては初めて指導者となりました。

 ま た、彼は楠美冬次郎らとともに、生産量の増えたりんごを県外に販売する努力をしたり、明治38年には病害虫を防ぐために初めて自分の園地のりんごに袋をか けました。袋かけの防除効果は多くの生産者の知るところとなり、翌年には県内全域に袋かけが拡がりました。袋かけ以外でも病害虫の防除として、明治の末に 大発生した褐班病を防ぐため、試験場の技師と協同でボルドー液を採用するなどの功績もあります。

 他にも、暗渠排水や低い樹形の推進、古くなった枝の更新や、独特の形に改良を加えた剪定鋏の共同開発など、新技術を広め、りんご産業の発展に尽くしました。

 また、明治41年9月に、皇太子が彼の園地に行啓訪問したことでも有名です。

澁川 傳次郎

(1898~1991)

 澁 川傳次郎は、戦争で荒廃したりんご園をいち早く再生させるために、りんご生産者で組織する「青森県りんご協会」を設立しました。彼は剪定の講師として各地 のりんご園地を回り指導し、りんご生産技術の向上に貢献しました。彼の指導のかいあって、りんご産業は持ち直していくこととなり、その業績から彼は「青森 りんご復興の祖」と言われています。

齋藤 昌美

(1918~1991)

 齋藤昌美は弘前市一野渡のりんご生産者で、品種「ふじ」の普及に大きく貢献した人物です。「ふじ」がまだあまり多く栽培されていない頃、齋藤昌美はいち早くその優位性を見抜き、「ふじ」の栽培に力を入れ栽培方法を確立しました。

 そして「ふじ」を栽培したいと願い出る生産者に対し、自分が育てた「ふじ」の木から枝を分け与えてあげました。これが「ふじ」が広まるきっかけとなったのです。

 その後「ふじ」の食味の良さが消費者に受け入れられ、今では世界中で最も多く栽培される品種となっているのです。

 弘前市りんご公園には、齋藤昌美が多くの生産者に枝を分け与えた木である『準原木』を植栽しています。ご来園された際には是非「ふじ」が広まる礎となった木をご覧ください。

問い合わせ先

担当 りんご課

電話 0172-40-7105

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