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義民 藤田民次郎

藤田民次郎

 民次郎は、1792年(寛政4年)鬼沢村庄屋彦兵衛の三人兄弟の二男として生まれ、小さいころから、たいへんかしこく、物事の判断も正しく、正義のためにはかんたんに考えをまげない強い性格の持ち主であった。
さらに、百姓たちの苦しみを直接見ながら育った民次郎は、少しでもその苦しみをとりのぞいてやろうと仲間たちによびかけ、話し合い、その指導者の一人となっていったのである。
  1813年。この年も春から天候不順で、苗の育ちはかんばしくなかった。つゆがあけてもくもり空が続いたり、こがらしがふくようになってもいねは実らなかった。
 うちつづく不作と重い税、それに労役を求められるなど、百姓たちの不安はつのるばかりであった。これと平行して不正をはたらく役人たちへの不満も絶頂に達していたのである。
 そこで民次郎たち代表者は、話し合いの結果、藩主へ直訴(直接うったえでる)することになったのである。
 1   不作の状況を実際に調べてもらいたい。
 2   税をこれまでより軽くしてもらいたい。
 3   役人のやることに不正のないようにしてもらいたい。
 4   これを計画した者の罰は、お上に任せる。
の四点を訴願状に書き、関係者みな同じ責任にするために、からかさ式連判状にし、血判をおすこととなった。
 家に帰った民次郎は、妻を呼び、夫婦の縁を切ることを告げる。このたびの直訴を成功させるためには、妻や兄弟といえども決して他言してはならないという申し合わせと、その後に災いが妻子に及ぶことをさけるためにとった措置であった。
 やがて民次郎は氏神様である鬼神社に別れのあいさつと、直訴の成功を願っての参拝をすませた。時は、まさに9月28日になろうとしていた。
 百姓たち一行は隊列を組み、むしろ旗とボタいねを先頭にかざして一歩一歩弘前城へと向かっていった。亀の甲近くに達するころには、その数は二千をこえていた。
 百姓たちは亀の甲門をおしあけ、一気に賀田門まですすんだ。
「お願いでございます。手向かいするのではありませぬ…。」
 民次郎は「訴願状」と「連判状」を差し出した。こうした民次郎の決死の行動とまごころがついに藩きっての勇者である足軽頭の心をゆさぶることができ、訴願状と連判状を受け取ったのである。訴願状と連判状は足軽頭から郡奉行へ、そして城番代官へとりつがれて藩主・寧親に差し出された。
翌29日、めし捕りがなされた。
 入獄して20数日たったある日、殿がじきじき作がらを調べた上、4万俵の蔵米が配られたり、種もみを買ってもらったり、3年間の免税(これは全国でも例のない大英断であったといわれる)がなされたことを知った民次郎たちは、喜びのすすり泣き、安どの涙をおさえることはできなかった。
その後、取り調べが始まったが民次郎は、他の代表者たちに罪がおよぶことをさけるために、あくまでも自分が先導したのだと主張し続けた。結果は、寛大な裁きとなったが、法はまげることができないため、民次郎一人が全責任を負うこととなり、他の代表者たちは軽い罰に終わることになったのである。
 かくして、11月26日。取上村の御仕置場において、22才の短い生涯を閉じたのである。よく百姓たちを指導し、自らの命をかけて藩主や役人を目覚めさせ、百姓たちの危機を救った民次郎の行動は、今もなお、義民として語り継がれている。
     (弘前市教育委員会発行:「中学生のための弘前人物史」より引用)

 

藤田民次郎の石碑(自得小学校校庭)


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