佐藤紅緑
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年齢 |
経歴 |
明治7年(1874年) |
0歳 |
弘前市親方町に、父・弥六、母・しなの次男として生まれる。本名・洽六。 |
明治13年(1880年) |
6歳 |
朝陽小学(現市立朝陽小学校)に入学する。 |
明治23年(1890年) |
16歳 |
青森県尋常中学校(現県立弘前高等学校)に入学する。 |
明治26年(1893年) |
19歳 |
中学校を中退して上京。 |
明治27年(1894年) |
20歳 |
日本新聞社に入社。 |
明治28年(1895年) |
21歳 |
東奥日報に入社。新聞小説を発表する。 |
明治33年(1900年) |
26歳 |
報知新聞社に入社。従軍記者として清国に渡り義和団の乱を取材する。その後、福井新聞社、万朝報社などを渡り歩く。 |
明治39年(1906年) |
32歳 |
脚本「俠艶録」が新派の当たり狂言となり、小説「あん火」が注目される。 |
明治41年(1908年) |
34歳 |
福士幸次郎が弘前から上京、書生となる。 |
大正12年(1923年) |
49歳 |
外務省嘱託として映画研究のためヨーロッパへ外遊する。 |
昭和2年(1927年) |
53歳 |
『少年倶楽部』に「あゝ玉杯に花うけて」を連載。 |
昭和4年(1929年) |
55歳 |
『少年倶楽部』に「少年讃歌」を連載。 |
昭和16年(1941年) |
67歳 |
12月、太平洋戦争始まる。 |
昭和24年(1949年) |
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6月3日、世田谷区上馬町の自宅で死去。(74歳) |
父・佐藤弥六は、慶応義塾で英学を学び、帰郷後は唐物屋(西洋小間物商)を開き、養蚕の導入や農業の改善に力を尽くすなど、進取の気性に富んだ人物で、洽六の奔放な性格はこの父の影響が大きい。幼い頃から粗暴な性質で弘前中学入学後も悪戯や乱暴で名を馳せるが、3年生の頃から詩や和歌に興味を示し、文芸誌に作品を発表するようになる。
日本新聞社、東奥日報社、東北日報社を経て報知新聞社の政治記者として活躍した紅緑は、俳句欄の選者としても活躍するが、明治39年(1906年)、高田実のために書いた脚本「俠艶録」で劇作家としてもデビュー。つぎつぎに脚本を発表し新派の座付作者として名声をあげる。一方で中央公論に小説「あん火」を発表し一躍文壇の注目を集め、自然主義作家としての道も切り拓いた。
小説集『榾』(服部書店 明治41年)
「あん火」収載
明治27年(1894年)、日本新聞社へ入社し、正岡子規と机を並べた洽六は、勧められて俳句を作り始め、紅緑と号して新聞や句誌にさかんに俳句を発表、日本派の一人として名を馳せる。子規とは師弟の交わりを通し、人間としての奥深い精神的教養を教えられる。
正岡子規書簡 佐藤紅緑宛
明治32年12月25日付
昭和2年(1927年)、講談社の編集長・加藤謙一(弘前市出身)の依頼で『少年倶楽部』5月号に「あゝ玉杯に花うけて」を連載する。連載を開始するや大反響を呼び、以後同誌の専属として、「紅顔美談」「少年讃歌」「一直線」などを次々に連載、全国の少年たちを熱狂させ、『少年倶楽部』の黄金時代を築く。また昭和4年(1929年)からは、『少女倶楽部』に「毬の行方」をはじめ「夾竹桃の花咲けば」「朝日のごとく」などの少女小説を連載し、次々と刊行した。
『あゝ玉杯に花うけて』
(大日本雄弁会講談社 昭和3年)
紅緑は日本新聞社員時代から俳人、劇作家、小説家、映画人として幅広く活躍しただけに、多くの知己友人との交流があった。県出身者では陸羯南のほかに、福士幸次郎、加藤謙一らがおり、とくに紅緑宅に寄寓した幸次郎は、家庭内の諸問題の始末に奔走し、身内のように紅緑につくした。
肋骨氏主催佐藤紅緑歓迎会
昭和9年9月20日
紅緑は二人の妻(はる、シナ〈三笠万里子〉)との間に12人の子をもうけるが、長男ハチローは詩人、ユーモア小説家となり、愛子は直木賞作家として活躍し、父紅緑の血を引き継いだ。ハチローは母を歌った詩や父についての随筆を、愛子は『花はくれない 小説 佐藤紅緑』や『血脈』などで佐藤一族の相克と愛憎を書いている。
娘愛子と息子ハチロー
昭和15年(1940年)、文壇での作家活動に終止符をうって句作に励む。戦況が次第に悪化した昭和20年(1945年)5月、長野県に疎開。戦後は文京区弥生町のハチロー宅に同居するが、その後世田谷区上馬町に移り、ここで永眠する。
紅緑直筆の短冊と句集『花紅柳緑』(六人社 昭和18年)