一戸謙三
年 |
年齢 |
経歴 |
明治32年 (1899) |
0歳 |
2月10日、弘前市本町71番地に、父・彦三郎、母・ふきの長男として生まれる。(出生は黒石市) |
明治38年(1905) |
6歳 |
弘前市立朝陽尋常小学校へ入学するが、市内を転々とし、黒石、蔵館にも転校した。 |
明治44年(1911) |
12歳 |
朝陽尋常学校を卒業。弘前市立弘前高等小学校へ入学。 |
明治45年(1912) |
13歳 |
4月、県立弘前中学校へ入学。在学中、成年養生会を結成する。 |
大正6年(1917) |
18歳 |
中学校を卒業。父死亡のため、木造葛西方に身を寄せる。 |
大正7年(1918) |
19歳 |
4月、慶応義塾医学科予科に合格し、上京。 |
大正8年(1919) |
20歳 |
夏、木造町に帰省。後藤健次らと「パストラル詩社」を結成、福士幸次郎の指導を受ける。 |
大正9年(1920) |
21歳 |
5月、経済的都合により帰郷。黒石町立黒石高等小学校代用教員となる。 |
大正11年(1922) |
23歳 |
1月、上京。農商務省商務局商事課雇員として勤務。 |
大正12年(1923) |
24歳 |
8月、農商務課を退職し、帰郷。 |
大正13年(1924) |
25歳 |
1月、西津軽郡森田村の盛ムメと結婚。9月、中津軽郡立玉成高等小学校代用教員となる。 |
大正15年(1926) |
27歳 |
1月、福士幸次郎より「地方主義の行動宣言」を受けとる。 |
昭和5年(1930) |
31歳 |
総合文芸雑誌『座標』の詩欄の編集委員となる。 |
昭和11年(1936) |
37歳 |
津軽方言詩集『ねぷた』を十字堂書房より刊行。 |
昭和14年(1939) |
40歳 |
3月、中津軽郡立大浦尋常小学校教員となる。 |
昭和17年(1942) |
43歳 |
4月、弘前市立青年学校に勤務する。 |
昭和23年(1948) |
49歳 |
3月、弘前市立第一中学校教諭となる。12月、詩集『歴年』を青森美術社より刊行。 |
昭和31年(1956) |
57歳 |
3月、弘前市立第一中学校を最後に教職を退く。 |
昭和34年(1959) |
60歳 |
弘前市を引き払い、木造町へ転居。 |
昭和35年(1960) |
61歳 |
10月、第2回青森県文化賞受賞が決定。 |
昭和37年(1962) |
63歳 |
第5回青森県褒賞を受賞。 |
昭和40年(1965) |
66歳 |
『自撰 一戸謙三詩集』を津軽書房より刊行。 |
昭和54年(1979) |
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10月1日、心不全のため死去。(80歳) |
自画像
明治32年2月10日、父・彦三郎、母・ふきの長男、一野屋八代目として生まれる。戸籍上の出生地は弘前市大字本町4丁目71番地であるが、実際は黒石町(現黒石市)上町の母の実家で生まれている。
明治45年4月、県立弘前中学校へ入学。在学中に成年養生会を結成し、回覧紙「松陰」を発行する。大正7年4月、慶應義塾医学科予科に合格し、上京。福士幸次郎の詩集『太陽の子』に感動する。大正8年夏、木造町に帰省。後藤健次らと「パストラル詩社」を結成。福士幸次郎の添削指導を受けながら、第一詩集『田園の秋』をはじめ第二、第三と詩集を出版する(第十詩輯で休刊)。
昭和54年10月1日、心不全のため死去するまで多くの方言詩を残す。
方言詩「麗日」オデンキ
一野屋家初代卯(宇)三郎は銅屋町に住し、塩、味噌の商いをしていたが、二代卯三郎(運蔵)の時に藩御用達商人となった。安政5年から本町4丁目角に移って質屋業を開き、土蔵が九つも建つほどに隆盛した。大円寺(現最勝院)境内に六角堂(如意輪観音堂)を寄進したのもこの頃といわれる。
六角堂(如意輪観音堂)
父・彦三郎(七代目)は松涛桜子彦と号する風流人だったためか、家業にはあまり専念しなかった。明治37年の日露戦争後、家屋敷を売って本町5丁目に移り、晩甘堂という茶店を開いた。その後、茶店を廃業し一家は市内を転々。この間、親類に身を寄せた謙三は、黒石小、蔵館小と転校する。再び5丁目に津軽手織屋を開業したが、父の死亡と謙三の進学により、一家は弘前を去る。
大正8年、歌人の後藤健次(柴峰)が主唱、一戸玲太郎(謙三)、桜庭芳露らの協力で自由詩の結社パストラル詩社が結成され、福士幸次郎の指導を受けた。県下最初の詩の結社としての活動も活発で、本県における文学活動のなかに詩壇的位置を定着させた。なお、パストラルとは「田園の情景」の意である。
昭和17年5月28日(43歳)
師・福士幸次郎(左)と謙三
福士幸次郎の『太陽の子』に感動した謙三は、はじめ抒情的な短歌や詩を作っていた。やがて方言詩の詩作と出版に情熱を傾けるが、『北』『聯』の同人となって活動を続ける一方、韻律と音数律や定型四行詩などについても意欲的に研究し、数多くの作品を発表した。
昭和9年11月
出版届「すかんこの花コ」
大正9年、謙三は家庭の事情で慶應義塾大学医学部本科を休学。帰郷して代用教員をしながら詩作活動を続けていたが、2度目の帰弘後は正式な教員免許を取得し、中津軽郡や弘前市の小学校と青年学校・中学校に勤めた。中学校の免許教科は国語と外国語(英語)であった。
昭和2年秋
中津軽郡立玉成高等小学校職員一同
高木恭造の『まるめろ』(昭和6年)の影響から「方言詩小論」を発表した謙三は、詩作にも情熱を示した。恭造は幸次郎の文学を継ぎ、謙三は血を継いだといわれるように、同じ方言詩でも謙三のものは城下町の言葉らしくソフトである。作家・五木寛之は謙三の「弘前」について「この作品を自分の体内に持つ津軽に、一種の嫉妬を覚える」と述べている。
『津軽方言詩集 ねぷた』
十字堂書房 昭和11年
昭和31年に教職を退いた謙三は、木造町(現つがる市木造町)松上町の長女宅に住み、地方の文人や知人との交流を深めていた。その後、同町若竹の長男宅に移るが、この家が終焉の場となる。
昭和34年12月10日
『椿の宮』出版記念会の芳名帳
昭和54年10月1日、心不全のため死去。4日、木造町の西教寺で通夜。6日、弘前市西茂森町の寿昌院で葬儀が行なわれた。法名・文鏡院謙徳輝道居士。死後、詩誌『胴乱』第10号、詩誌『風』12号が、追悼号として謙三を特集した。
高木恭造の弔詞