今官一
年 |
年齢 |
経歴 |
明治42年(1909) |
0歳 |
弘前市西茂森町蘭庭院に、父完吾、母さだの長男に生まれる。 |
大正11年(1922) |
13歳 |
東奥義塾に入学。4年の時に福士幸次郎と遇う。 |
昭和2年(1927) |
18歳 |
早稲田第一高等学院ロシア文学科に入学。 |
昭和5年(1930) |
21歳 |
ロシア文学科の廃止で退学。帰郷するが、再び上京する。 |
昭和9年(1934) |
25歳 |
太宰治、檀一雄らと「青い花」を創刊する。 |
昭和13年(1938) |
29歳 |
『文学汎論』に発表した「旅雁の章」が下半期芥川賞候補となる。 |
昭和16年(1941) |
32歳 |
鉄道省観光局に勤務する。 |
昭和19年(1944) |
35歳 |
4月、横須賀海兵隊に入団。戦艦長門の乗組員としてレイテ沖海戦に参戦。 |
昭和20年(1945) |
36歳 |
敗戦。母さだの病没を知る。 |
昭和27年(1952) |
43歳 |
6月、影山くみ子と婚姻届出。 |
昭和31年(1956) |
47歳 |
『壁の花』で第35回直木賞を受賞する。 |
昭和39年(1964) |
55歳 |
父完吾、死去。 |
昭和48年(1973) |
64歳 |
8月、妻くみ子死去。10月、西村公恵と婚姻届出。 |
昭和54年(1979) |
70歳 |
10月、脳梗塞と診断され、車椅子生活を余儀なくされる。 |
昭和55年(1980) |
71歳 |
弘前に帰り療養。口述による執筆活動を続ける。 |
昭和58年(1983) |
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3月1日、死去。(73歳) |
再興の第一回生として東奥義塾に学んだ官一は、この学び舎で大きな影響を受けた。
とくに国語、漢文の教師として赴任してきた福士幸次郎の指導で、同人誌『わらはど』を刊行、意欲的に創作を発表した。官一の文学への開眼は幸次郎に負うところが多く、また義塾時代に培った英語力と聖書への造詣の深さは、後年彼の文学に色濃く反映している。
福士幸次郎
昭和5年に再度上京した官一は、太宰らとともに、『海豹』や『青い花』の同人誌を刊行、文学修行に励んだ。同郷でありしかも生まれ年も同じ(明治42年)という事もあって、特別親しみを覚えていたようだ。太宰の死後、太宰に関する数多くのエッセイを書いた。「桜桃忌」の名付け親でもある。
昭和19年4月、戦況激化とともに応召、横須賀海兵団に入団、戦艦長門に配乗した。35歳の老兵だった。防空員一等水兵としてレイテ沖海戦に参戦、2階級特進して水兵長となるが、このときの体験は、『幻花行』『不沈戦艦長門』として発表された。
昭和31年7月、『壁の花』(芸術社)で第35回直木賞を受賞。これは当時『毎日グラフ』に「文学を見る」を連載するかたわらコツコツと書きためていたもので、折から、葛西善蔵文学碑除幕式への参列と重なり、直木賞をみやげの23年ぶりの帰郷となった。「芥川賞の間違いでは」や「大衆文学作家としては変わり種」という期待の声もあったが、官一はその後もハイブローな姿勢を崩すことはなかった。
色紙
31歳で夭折した上北町出身の詩人・大塚甲山の人と業績に深い関心を持った官一は、甲山の日記や自伝、書簡などを借り出して根気よく筆写解読と調査を続け、「鴉の宿はここである」と題し『自由』に連載した。また明治初年、北海道の開拓事業や畜産業の指導にあたった米人、エドウィン・ダン(妻は津軽出身)の生涯に関心を寄せ、追求して小説『牛飼いの座』を表した。
『牛飼いの座』(講談社 昭和36年)
昭和54年9月、脳梗塞で倒れた官一は、津川武一ら知己の尽力で翌年弘前へ帰郷する。健生病院を退院後、「生きているうちに全集をだしたい」という官一の願いを受けて、昭和55年、作家生活50年の集大成『今官一作品』上下巻(津軽書房)を出版した。その後、夫人の口述筆記で新聞にエッセイを連載したが、昭和58年3月1日に亡くなる。
翌年から幻花忌が命日に行われ、平成18年12月8日、弘前市立弘前図書館敷地に今官一文学碑が建立された。