高木恭造
年 |
年齢 |
経歴 |
明治36年(1903) |
0歳 |
10月12日、青森市大字米町113番戸に生まれる。父・啓太郎、母・なみ。 |
明治43年(1910) |
7歳 |
4月、青森市橋本尋常小学校に入学。11月、母・なみ死去。 |
大正5年(1916) |
13歳 |
4月、県立青森中学校に入学。 |
大正10年(1921) |
18歳 |
2月、父・啓太郎死去。 |
大正11年(1922) |
19歳 |
3月、東津軽郡袰月尋常高等小学校代用教員となる。 |
大正12年(1923) |
20歳 |
官立弘前高等学校理科甲類に入学。 |
大正15年(1926) |
23歳 |
4月、青森日報社に入社。10月、同社の主筆として迎えられた福士幸次郎を知り、方言詩を書き始める。岡村ふちと結婚する。 |
昭和3年(1928) |
25歳 |
満州行を決意し、12月奉天に着く。 |
昭和4年(1929) |
26歳 |
4月、満州医科大学本科に補欠入学。 |
昭和5年(1930) | 27歳 | 12月、粟粒結核のため妻・ふち死去。(26歳) |
昭和6年(1931) |
28歳 |
10月5日、津軽方言詩集『まるめろ』を刊行する。 |
昭和8年(1933) |
30歳 |
2月、奉天神社で山口ノボリと挙式。3月、満州医科大学を卒業し、満州内に勤務。 |
昭和19年(1944) |
41歳 |
「読書と採光」(主論文)により医学博士号を受ける。 |
昭和21年(1946) |
43歳 |
10月、旧満州より引き揚げる。弘前診療所に勤務が決まる。 |
昭和23年(1948) |
45歳 |
6月、弘前市北川端町に高木眼科医院を開業する。 |
昭和29年(1954) |
51歳 |
2月、詩誌『くうたふむ』同人となる。 |
昭和33年(1958) | 55歳 | 創弦座のために戯曲を書く。 |
昭和37年(1962) |
59歳 |
11月、第4回青森県文化賞を受賞する。 |
昭和43年(1968) |
65歳 |
6月、方言詩「冬の月」が英訳され、カナダの雑誌『マラハット・レビュー』に紹介される(48年に全訳が完了)。 |
昭和48年(1973) |
70歳 |
9月と12月、東京・渋谷ジァンジァンで自作詩朗読会を開く。 |
昭和50年(1975) |
72歳 |
12月、第28回東奥賞を受賞する。 |
昭和58年(1983) |
80歳 |
10月、「高木先生の八十歳を祝う会」が開かれる。 |
昭和60年(1985) |
82歳 |
11月、昭和60年度地域文化功労賞で文部大臣表彰を受ける。 |
昭和62年(1987) |
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6月、昭和62年度先達詩人として「'87日本の詩祭」で顕彰される。10月23日、青森県立中央病院で死去。(84歳) |
明治36年、青森市米町に生まれた恭造は、生家隣の今泉書店に出入りしながら読書に親しんだ。青森中学校卒業後、袰月尋常小学校の代用教員となるが、4ヶ月でやめ、弘前高等学校に進む。大学へは行かず、青森日報社に入社し、新聞記者として勤める。半年後、主筆として迎えられた福士幸次郎に、方言で詩を書くことを勧められる。これが、方言詩を書くきっかけとなった。
方言詩の象徴として捉えられた『まるめろ』は、わかりにくいと言われる津軽弁であるにもかかわらず、文学性を保ち、様々な書物に取り上げられた。中学校国語の教科書にものるなど、方言の閉鎖性を超え、感情表現の普遍性を証明したものといえる。
津軽方言詩集『まるめろ』
北編輯所 昭和6年10月
方言詩を読むだけでなく、朗読する事によって起こる津軽弁の響きは、多くの人々の心をとらえ、感動を与えた。それは、ラジオ番組や詩の朗読会への出演、朗読を吹き込んだレコードの制作など、多方面な活動として広がり、その影響は芸術家達のモチーフとして用いられるなど、さまざまな共感を呼び起こした。
まるめろLPレコード
青森市民文化ホール 昭和56年12月15日
昭和43年、イギリスの詩人ジェイムズ・カーカップと中野道雄によって方言詩集『まるめろ』が英訳され、海外にも紹介された。その後、現代詩や短編小説も翻訳された。
恭造は晩年、体調が思わしくなく、高木眼科医院を閉じた後、青森市桜川の三女恭子の住んでいる山内家に転居した。原稿は万年筆で書いていたが、晩年はボールペンを愛用していた。最後まで自伝の集大成を残そうとしていたが、遂に果たせなかった。
昭和62年、がんのため永眠した恭造に、各界から弔辞が寄せられた。また、文芸三誌が特集号を組み、さまざまな新聞が追悼文や追悼記事を掲載した。