石坂洋次郎
年 |
年齢 |
経歴 |
明治33年(1900) |
0歳 |
7月25日、弘前市代官町82番地に、父忠次郎、母トメの次男として生まれる。 |
明治40年(1907) |
7歳 |
弘前市立朝陽小学校に入学。 |
大正2年(1913) |
13歳 |
青森県立弘前中学校(現弘前高校)に入学。 |
大正8年(1919) |
19歳 |
慶応義塾大学文学部予科に入学。 |
大正10年(1921) |
21歳 |
文学部仏文科に進学。11月、横浜聖書学院に在学中の今井うらと結婚する。 |
大正12年(1923) |
23歳 |
7月、同郷の葛西善蔵を鎌倉の建長寺・宝珠院に訪ねる。 |
大正14年(1925) |
25歳 |
慶應義塾大学国文科を卒業。6月、青森県立弘前高等女学校(現弘前中央高校)に奉職。 |
大正15年(1926) |
26歳 |
9月、秋田県立横手高等女学校(現城南高校)に転任。 |
昭和4年(1929) |
29歳 |
秋田県立横手中学校(現横手高校)に転任。 |
昭和11年(1936) |
36歳 |
「若い人」により、第一回三田文学賞を受賞する。 |
昭和14年(1939) |
39歳 |
一家をあげて上京する。 |
昭和16年(1941) |
41歳 |
陸軍報道班員としてフィリピンに派遣される。 |
昭和22年(1947) |
47歳 |
「青い山脈」を、朝日新聞に連載する。 |
昭和23年(1948) |
48歳 |
「石中先生行状記」を小説新潮に断続的に連載し始める。「石中先生行状記」が、猥褻罪に問われたが、起訴猶予となる。 |
昭和24年(1949) |
49歳 |
「山のかなたに」を、読売新聞に連載する。以下「丘は花ざかり」(昭和27年)、「陽のあたる坂道」(昭和31年)と続く。 |
昭和29年(1954) |
54歳 |
三女路易子の嫁ぎ先ピアス家の招きで渡米。その後、ヨーロッパを巡遊する。 |
昭和37年(1962) |
62歳 |
胆嚢炎が再発するが、快復する。「光る海」を朝日新聞に連載する。 |
昭和46年(1971) |
71歳 |
8月、うら夫人が心筋梗塞のため死去する。 |
昭和61年(1986) |
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10月7日、静岡県伊東市の自宅で死去。(86歳) |
明治33年、弘前市代官町82番地に生まれる。父忠次郎は古着屋、質屋等を職業にしていたが保守的な人柄で、骨董趣味にこったりして、商売はあまり熱心ではなかった。士族の末子に生まれた骨っぽい努力家の母トメが、農村相手に反物の月賦販売をしたので弟とともに高等教育を受けることが出来た。兄弟は3つ上の兄と4つ下の弟がいた。
弘前市立朝陽小学校、県立弘前中学校(現在の弘前高校)を経て、慶応義塾大学文学部に学ぶ。在学中に同郷(弘前市下土手町)の今井うらと結婚。鎌倉建長寺に同郷の作家葛西善蔵を訪ね、大きな影響を受ける。
左から県立弘前中学校入学当時(大正2年)、うら夫人との新婚時代(大正11年)
大正14年、大学卒業と同時に郷里に帰り県立弘前高等女学校(現在の弘前中央高校)の教員となる。翌年9月、秋田県立横手高等女学校(現在の横手城南高校)へ、やがて県立横手中学校(現在の横手高校)へと転任する。この14年におよぶ教員生活が、石坂文学に豊かな素材を与えた。第一作「海をみに行く」が『三田文学』に掲載されたのは、昭和2年の27歳のことであった。その後、昭和8年より連載された「若い人」が好評を博し、これは昭和12年改造社より刊行されると、一躍ベストセラーとなる。これと、昭和11年『文芸』に掲載された「麦死なず」によって作家としての地位を確立した。
左から一家上京の頃(昭和14年)、『若い人』『続若い人』
昭和14年、一家をあげて上京、田園調布に住み職業作家となったが石坂洋次郎の名が全国的に知れ渡るようになるのは、戦後昭和22年「青い山脈」によってであった。『朝日新聞』に掲載されたこの小説は、発表と同時にたいへんな評判を呼び、24年映画「青い山脈は」爆発的なヒットとなり、その主題曲は現在も歌い継がれている。これを契機に石坂洋次郎は次々と作品を発表する。それはまた次々と映画化され国民的作家石坂洋次郎の全盛期を迎える。
昭和23年、「石中先生行状記」を『新潮』に連載、31年には「山と川のある町」を発表。33年初めての童話「ぼくは1年生」を『小学1年生』に連載。昭和41年、菊池寛賞を受賞、翌年、直木賞の選考委員となる。
『石中先生行状記』完結篇、『石中先生行状記』第三部、『青い山脈』
石坂作品の映画化は「若い人」(昭和12年)に始まり、その数80本にも及ぶ。昭和24年の「青い山脈」の大ヒット以降は、毎年数本ずつ映画化されるという状態が20年以上続く。
家族で石坂作品を鑑賞した映写機
年 | タイトル | 主演 |
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青い山脈 | 原節子、池部良、若山セツコ |
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石中先生行状記 | 池部良、三船敏郎 |
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乳母車 | 石原裕次郎、芦川いづみ |
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山と川のある町 | 宝田明、雪村いづみ |
昭和33年(1958) | 陽のあたる坂道 | 石原裕次郎、北原三枝 |
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あいつと私 | 石原裕次郎、芦川いづみ |
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草を刈る娘 | 吉永小百合、浜田光夫(津軽ロケ) |
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若い人 | 石原裕次郎、吉永小百合 |
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美しい暦 | 吉永小百合、浜田光夫 |
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光る海 | 浜田光夫、吉永小百合 |
昭和46年、うら夫人死去。そのためか、48年年以降はエッセイなどにペンを執るにすぎなかった。石坂洋次郎は晩年を伊豆(伊東市)で過ごし、昭和61年10月7日、惜しまれながら自宅にて死去。86歳であった。
遺骨は多磨霊園に葬られ同じ11月、郷里の貞昌寺に分骨された。
晩年(昭和49年10月)
左から『わが日わが夢』(路上社 平成2年7月)、『わが半生の記』(新潮社 昭和50年5月)