
平田小六
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年 |
年齢 |
経歴 |
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明治36年(1903) |
0歳 |
11月1日、父・孝次郎、母・くめの三男として、父の勤務先である秋田県大館町715番地に生まれる。 |
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明治44年(1911) |
8歳 |
母・くめ、死去。 |
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大正7年(1918) |
15歳 |
父の転勤で鰺ヶ沢、田名部、青森・橋本小学校と移り、弘前中学校に入学する。 |
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大正12年(1923) |
20歳 |
弘前中学校を卒業。中津軽郡三和尋常小学校代用教員となる。 |
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大正13年(1924) |
21歳 |
北津軽郡小泊村下前尋常小学校訓導となる。 |
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大正15年(1926) |
23歳 |
北津軽郡相内尋常小学校を経て、弘前・城西小学校に転任。 |
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昭和3年(1928) |
25歳 |
父・孝次郎についで弟・勝男も死去。 |
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昭和4年(1929) |
26歳 |
教職を辞し、上京。東京毎日新聞社記者となる。 |
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昭和8年(1933) |
30歳 |
『文化集団』に長編小説「囚はれた大地」を発表。 |
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昭和13年(1938) |
35歳 |
中国に渡り京津日日新聞社に勤める。 |
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昭和19年(1944) |
41歳 |
広島県出身の二宮澄子と結婚。 |
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昭和21年(1946) |
43歳 |
広島県に引き揚げ、再び創作の筆をとる。 |
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昭和26年(1951) |
48歳 |
東津軽郡西平内茂浦で製塩業を営むが失敗に終わる。 |
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昭和35年(1960) |
57歳 |
八木義徳らと「川崎文学賞」の審査員となる。 |
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昭和41年(1966) |
63歳 |
『日本及日本人』(復刊)などで評論活動に入る。 |
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昭和51年(1976) |
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5月18日、稲城市立病院で死去。(72歳) |
父の勤務地の関係で、秋田県大館町で生まれた。小学校は青森、鰺ヶ沢、田名部、弘前と各小学校を転校し、その後、旧制弘前中学校へ進学するが、文芸雑誌に投稿する文学少年でもあった。実母の死後、新しい母を迎えたが、まもなく父が中風で倒れるなど苦労の連続であった。
家計を助けるために進学を断念。旧制弘前中学校在学中、教員の資格試験に合格していた平田は、卒業と同時に中津軽郡三和小学校、北津軽郡下前小学校、同郡相内小学校、弘前市城西小などで教鞭をとる。この間体験した農漁民の生活が、のちに長編小説「囚はれた大地」の下敷きとなった。

昭和8年、『文化集団』に連載をはじめた「囚はれた大地」で無名の作家平田は一躍文壇の注目を集め、亀井勝一郎などは「本格的な農民小説」と激賞、「プロレタリア文学の新星」ともてはやされた。このあと「童児」「村の地主」「凶作地帯」など、東北の農村を舞台とした作品を次々と発表した。
『囚はれた大地』
左:ナウカ社 昭和9年刊 右:北の街社 昭和53年刊
戦時中、文筆活動が制約されて自由に執筆できなくなった平田は、昭和13年に中国へ渡り新聞記者となる。のち河北宣伝連盟に参加、芦台、鎮内で米作改良生産の仕事に携わるが、終戦により昭和21年1月引き揚げる。この経験が後に「後院児」「常森を尋ねて」「陽炎」などの作品となる。

昭和19年 結婚記念写真
昭和21年に中国より引き揚げ、一時、妻の実家である広島市に住む。上京の機会を窺っていたが戦後の混乱期のため、旧友の成田宏、阿保健らを誘って東津軽郡西平内茂浦で製塩事業をしたり、小笠原八十美代議士の選挙事務所に勤めるなど苦労を重ねる。しかし、創作に対する意欲は衰えることはなかった。

昭和26年2月~3月
東奥日報連載「ポカンさん」
内地引き揚げ後も短編や随想などに秀れたものを発表していたが、プロレタリア作家、農民作家というレッテルを貼られるのを嫌ったか、それとも時流におもねる作品を書くことを潔しとしなかったか、もっぱら評論活動に入り、陸羯南、岡倉天心、倉田百三らの思想とその生涯を『日本及日本人』に精力的に執筆した。また、美術に関する評論も数多く発表している。
『日本及日本人』
晩年は、東京都稲城市の自宅でりんごの樹の手入れをしたり、読書をしたりという落ち着いた生活であった。昭和51年5月、病のため死去。1年後に淡谷悠蔵、須藤均治らが中心となり、思い出の地、下前を望む小泊村折戸地区に、文学碑が建立された。

文学碑「春は田のくろ夏の雨秋は枯葉冬の月」