太宰治
年 |
年齢 |
経歴 |
明治42年(1909年) |
0歳 |
6月19日、青森県北津軽郡金木村(現五所川原市金木町)に、父源右衛門、母タ子(たね)の第十子六男に生まれる。本名、津島修治。 |
大正5年(1916年) |
7歳 |
金木第一尋常小学校に入学。 |
大正11年(1922年) |
13歳 |
明治高等小学校に一年間在籍し、翌12年、青森県立青森中学校に入学。 |
昭和2年(1927年) |
18歳 |
4月、官立弘前高等学校文科甲類に入学。7月、芥川龍之介の死に衝撃を受ける。 |
昭和5年(1930年) |
21歳 |
4月、東京帝国大学仏文科に入学。井伏鱒二に師事する。11月、鎌倉腰越の海岸で、田部シメ子(通称あつみ)と睡眠薬心中を図る。同月、戸籍分家する。 |
昭和6年(1931年) |
22歳 |
小山初代と結婚。反帝学生同盟に加わり、非合法運動を続ける。 |
昭和7年(1932年) |
23歳 |
7月、青森警察署に自首。12月、以後左翼運動から離れる。 |
昭和9年(1934年) |
25歳 |
古谷綱武、檀一雄らの『鷭』(ばん)に参加する。 |
昭和10年(1935年) |
26歳 |
4月、盲腸炎から腹膜炎を併発。8月、「逆行」で第一回芥川賞候補となるが落選。佐藤春夫に師事する。 |
昭和13年(1938年) |
29歳 |
11月、甲府市の石原美知子と婚約。翌14年1月、結婚式を挙げる。 |
昭和14年(1939年) |
30歳 |
東京府下三鷹村下連雀113番地に転居する。 |
昭和15年(1940年) |
31歳 |
「女生徒」で、第四回北村透谷記念文学賞副賞に選ばれる。 |
昭和19年(1944年) |
35歳 |
5月、郷里津軽地方を取材旅行する。 |
昭和20年(1945年) |
36歳 |
4月、空襲に遇い、罹災する。 |
昭和23年(1948年) |
|
6月13日、『朝日新聞』連載中の草稿「グッド・バイ」を残して山崎富栄と玉川上水に入水、死去。(38歳) |
太宰は昭和2年(1927年)4月、官立弘前高等学校に入学する。それに伴い昭和5年(1930年)3月の卒業まで親戚の藤田豊三郎方に下宿し、弘前で3年間学生生活を送る。歳の近い藤田家の兄弟と仲が良く、写真が趣味の兄・藤田本太郎のモデルにもよくなっていたという。下宿していた藤田家は現在「太宰治まなびの家」として移築され保存・公開されている。
入学当初は創作活動から離れていたが、やがて同人誌『細胞文藝』を創刊。新聞雑誌部にも加わり、『弘高新聞』に作品を発表。『校友会雑誌』の編集等にも力を注いだ。
芥川龍之介や江戸の遊里文学、泉鏡花の作品を好み、義太夫を習い、やがて花柳界にも出入りするようになる。尊敬する芥川龍之介の自殺、弟・礼治の死、左翼運動、カルモチンによる自殺未遂などを体験する。
今官一(こんかんいち)は、太宰とは同い年。太宰は今の誘いで同人誌『海豹』に加わり、創刊号に「魚服記」を発表するとたちまち注目を集めた。『海豹』創刊について、今が一戸謙三に宛てた手紙の中に、「太宰とは世を忍ぶかりの名、わが津島修治君その人であります。」と、太宰が加わった喜びを伝えている。今は太宰の才能を認め、太宰は今を自分の良き理解者と捉えていた。
太宰と今 撮影 伊馬春部
同人誌『海豹』第4号
阿部合成(あべごうせい)は青森県南津軽郡浪岡町(現青森市)生まれの洋画家である。青森中学で太宰と同級で、以来生涯交流が続いた。『千代女』『風の便り』『女性』などの装幀を手がけた。芦野公園に建つ「太宰治碑」も彼の手によるもので、制作にあたり当時の太宰文学に対する世間の評価を、「にんげんの事を思い煩う多くの若い人々の通るみちの一つの門、けれどもそれは狭い、けわしい門」と捉え、太宰を「彼は自らの肉体を燃焼して、その作品を不死のものとした」と評して「門」と「不死鳥(フェニックス)」をデザインした。
左から『千代女』(筑摩書房 昭和16年)、『女性』(博文館 昭和17年)、芦野公園に建つ太宰治碑
太宰の三兄・圭治主宰の同人雑誌。1926年(大正15年)9月創刊。修治は「辻島衆二」のペンネームで執筆。表紙は「夢川利一」こと圭治が描いた。圭治が上京し二号までの刊行となった。
『青んぼ』創刊号(大正15年9月1日)
『晩年』(砂子屋書房 昭和11年)
・『晩年』
太宰治の第一創作集。砂子屋書房の「まだ創作集を出していない、有望な新人作家達の第一創作集を出版する」という企画に檀一雄が太宰を推薦し、昭和11年6月刊行される。昭和8年(1933年)2月から11年(1936年)4月にかけて発表した作品が収められた(執筆されたのは主に昭和7年から9年)。「葉」「思ひ出」「魚服記」「列車」「地球図」「猿ヶ島」「雀こ」「道化の華」「猿面冠者」「逆行」「彼は昔の彼ならず」「ロマネスク」 「玩具」「陰火」「めくら草紙」の15編収録。
校正を檀が、装丁を太宰が担当し、太宰は各所にこだわりを持ち、表紙を薄鼠色で「晩年」の二文字のみにするのも太宰のこだわりの一つだった。いよいよ出来上がった時には、太宰は本を座敷に並べ、一冊一冊趣向を凝らし、相手によってしたためる文句を変え、楽しそうに贈呈本に署名していたという。昭和11年7月11日、東京上野精養軒で出版記念会が開かれた。出席者の寄せ書き帳には檀はもちろん、今官一、亀井勝一郎、井伏鱒二などの名前が連なる。
『津軽』(小山書店 昭和19年)
・『津軽』
「新風土記叢書7」として昭和19年に小山書店から刊行された書き下ろし長編小説。この取材の為に太宰は実際に津軽を旅して歩いた。「ね、なぜ旅に出るの?」「苦しいからさ。」「さらば読者よ、命あらばまた他日。」など様々なフレーズと共に、物語後半の子守・タケとの再会シーンが有名である。
文庫本としては勿論、外国語に翻訳されたり、『津軽』を片手に太宰ゆかりの地を旅するガイドブックが発行されたりと、今日でも『津軽』は様々な形で読み継がれている。
・『斜陽』
昭和22年に雑誌『新潮』に四回にわたって連載され、戦後没落していく貴族の娘の生き様や恋の革命を描き一躍ベストセラーとなり、「斜陽族」の言葉が生まれるなど太宰の人気を不動のものとした。
太宰は1948年(昭和23年)6月13日夜から行方不明となり、大がかりな捜索の結果、19日三鷹市の自宅に程近い玉川上水で遺体が発見された。
墓碑は、太宰の『花吹雪』という作品の中で登場人物が森鷗外の墓を訪ねて「私の汚い骨も、こんな小奇麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救ひがあるかも知れない」と空想する場面が書かれた縁で、東京三鷹市禅林寺の森鷗外の墓にほど近い場所に建てられた。法名 文綵院大猷治通居士。
三鷹市禅林寺にある墓碑