史跡津軽氏城跡弘前城跡は、弘前藩初代藩主・津軽為信により築城が計画された江戸時代のお城です。
築城着手前に為信が亡くなり、お城は2代藩主信枚の時代、慶長16年(1611年)に完成しました。
お城は本丸・北の郭・二の丸・三の丸・四の丸・西の郭の6つの郭で構成された平山城で、その規模は東西約 500m、南北約1,000m、総面積約50ヘクタールに及びます。濠は三方・三重に巡らされ、西側は蓮池と岩木川の流路であった西濠で守られています。
築城当初の天守は五層(5階建)であったといわれ、本丸の南西隅に位置していましたが、寛永4年(1627年)の落雷により焼失したと伝わっています。
本丸の南東隅にある現在の天守は、文化7年(1810年)に9代藩主寧親が櫓造営の名目で再建したものです。
日本で現存している12天守のうちのひとつに数えられ、3棟の二の丸隅櫓・5棟の城門とともに重要文化財に指定されています。
本丸東側の石垣
解体修理が決まった本丸東側の石垣は、慶長16年(1611年)の時点では一部しか築造されていませんでした。
再び石垣が築造されたのは、約80年後の元禄年間のことです。
元禄7年(1694年)に石垣築造の起工式が催され、同8年(1695年)に石垣築造工事着手、同12年(1699年)にようやく完成します。
年月は流れ明治時代の中頃になると、天守台の北側で石垣の崩落が起こります。
明治29年(1896年)の石垣崩落の際には、そのまま放置すると天守まで崩落する危険性があったため、翌30年に弘前市出身の大工棟梁・堀江佐吉が、天守を西側に曳屋しています。最終的に石垣を現在の形状に修理し終えたのは、大正4年(1915年)のことでした。
大正4年(1915年)の石垣修理工事(弘前市広聴広報課蔵)
明治・大正の石垣修理から100年ほど経過し、今再び天守の曳屋・石垣解体修理工事が本格化します。
どちらもめったにない貴重な機会ですので、積極的に発掘調査・修理工事の現場を市民の皆さんに公開していきます。
史跡津軽氏城跡(弘前城跡)弘前城本丸石垣解体調査概報1(平成31年3月刊行).html
※「平成30年度 弘前城本丸石垣修理 事業内容」ページを開いてスクロールし、一番下をご覧ください。
史跡津軽氏城跡(弘前城跡)弘前城本丸石垣発掘調査報告書(令和4年3月刊行).html
※「令和3年度 弘前城本丸石垣修理 事業内容」ページの冒頭をご覧ください。